マルタ史概略
History of MALTA


【お断り】

マルタの古代史、超古代遺跡についての情報で、世間に広く認知されているのは「正統派」の考古学者や歴史学者による主張です。近年、「正統派」の「定説」に誤りがある、あるいは、意図的に歪められたものがあるとの主張や、証拠を示してその誤りを糾す動きがでています。2002年11月時点で、中央地中海通信の該当コンテンツは、ほとんどが「正統派」の「定説」によっていますが、今後、「正統派」以外の主張を採用したり、両者の主張を対比するといったコンテンツ制作をおこなっていきます。1964年に、炭素年代測定法が見直され、エジプト文明やエーゲ海諸文明の稚拙な模倣と考えられていたマルタの巨石建造物が、それまでの推測よりも1000年は古いものだいうことになり、センセーションをまきおこしたことがありました。これと同じように、マルタの遺跡がさらに古い文明のものであり、マルタの歴史はもっと古いという証拠が、近い将来提示され、広く世の中に認知されるようになるやも知れません。


マルタは古来より「地中海のへそ」と呼ばれ、その交通上および戦略上の重要性から、多くの民族や文明、勢力が行き交った場所でした。
そのため、小さな島にもかかわらず、歴史のエピソードに富み、遺跡史跡も多く、それがまたマルタの魅力のひとつとなっています。


☆★ これだけ知ってればまずはOK!マルタ史概略年表 ★☆
超古代

B.C.5200年頃〜4100年頃

新石器時代

B.C.4100年頃〜2500年頃

巨石文明の時代。巨石神殿群や地下迷宮がつくられる。

B.C.2300年頃〜1000年?

青銅器時代

古 代

B.C.1000年?〜650年頃

フェニキア人による支配

B.C.650年頃〜218年

カルタゴ支配

B.C.218

第二次ポエニ戦争初期にローマの領土になる

A.D.60年
(以下年号はすべてAD)

聖パウロの漂着(新約聖書使徒行録28章)
マルタにキリスト教がもたらされる

6世紀

ビザンチン帝国の支配下に

中 世

870年

サラセン人の侵寇。二世紀にわたるアラブ支配の始まり。

1090年

シチリア伯ロゲリウス(ノルマン伯ロジャー)によるマルタ解放
以後、両シチリア王国時代をへて、シシリーとともに南欧列国の支配下に

16世紀

経済、文化の衰退。人口が2万人程度に減少。

1522年

聖ヨハネ騎士団がロードス島を追われる

1530年

聖ヨハネ騎士団(後のマルタ騎士団)、スペイン皇帝カール五世によりマルタを所領として封ぜられる。
二世紀半にわたる騎士団支配のはじまり

近 世

1565年

大包囲戦(THE GREAT SIEGE)。オスマン・トルコによるマルタ侵寇。
マルタ騎士団、戦力が3〜4倍のトルコ軍の攻撃に耐えぬく。

1566年

シベラス半島にヴァレッタの建設はじまる

1571年

騎士団の本拠がヴットリオザからヴァレッタにうつる。
レパントの海戦にマルタ騎士団の艦隊が参加。

1798年

エジプト遠征途上のナポレオン軍が、マルタに上陸、占拠。騎士団、マルタを追われる。

近 代

1800年

英軍、仏軍を下しマルタを占領

1814年

マルタ、英領となる

現 代

1914年〜1918年

第一次世界大戦。
このとき、日英同盟のもと、連合軍の一員として、マルタを拠点として地中海で行動した日本海軍の戦病死者がマルタに葬られる。

1921年

日本の皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)が、マルタを訪問

1940年〜1942年

第二次大包囲戦(THE SECOND GREAT SIEGE)。
独伊軍のマルタに対する封鎖と、大規模な空爆。

1942年4月

「マルタと人々の勇気と行動」に対してジョージクロス勲章が、英国々王ジョージ6世より、授けられる。

1964年9月

マルタ、英連邦内での独立

1974年12月

マルタ、大統領を元首とする共和制を宣言

1979年

英軍、マルタより完全撤退

1989年12月

マルサシロク湾にて米ソ首脳会談(マルタサミット)。
冷戦の終結。

2004年5月

マルタEUに正式加盟


☆★ マルタの歴史をもうちょっと詳しく ★☆
●最初の人類
マルタに見られる最も古い人類の痕跡は、7000年ほど前の新石器時代のものです。この人々はシシリーから渡ってきたと考えられます。すでに、農耕と牧畜の技術をもち、簡単な住居つくっての、定住の文化を持っていました。
また、黒曜石の道具が発掘されていることから、地中海の他の島々との交易関係も成立していたとも考えられています。

●巨石の神殿
巨石神殿の時代、マルタには、それぞれ首長に率いられた数個の集落の、平和な共同体のような社会があったとされます。巨石の神殿は、首長の指導のもと、祭事としての共同作業で、少しずつ建てられていったと考えられます。この時代のマルタは、常に水の流れている川もあり、緑も豊な島でした。海からの恵みとあわせて、当時のマルタは数千人の人口を養える食料を得ることができました。巨石文化の後期、タルシーン神殿の出来たころ、開墾や耕作による表土流出などがもとで環境の変化がおこり、川は涸れ、マルタは今日の、岩山のような島になりました。この後、巨石文化の人々は、忽然と姿を消します。環境の変化のために島を捨てた、疫病のために滅んでしまった、といった説が唱えられています。はたまた、マルタに新たに移住してきた青銅器文化の人々に駆逐されたという説もあります。ただし、巨石文化の人々と、青銅器文化の人々との関連をウラヅケるものがなく。むしろ、巨石文化の終焉ののち、マルタは約200年のあいだ無人であったというのが、今日の定説となっています。

●青銅器時代
集落の平和な共同体であった巨石文化の時代とはうってかわり、青銅器文化の時代は、集落のあいだの争いが絶えなかったようです。この時代、集落の周囲には、防備のための石垣がつくられたりしました。ビルゼブジャの街はずれにあるボージ・イン・ナドゥール(Borg in-Nadur)などのように、今日も残っている石垣もあり、一部は、畑の石垣として、そのまま使われていたりします。また、この時代、巨石文化の遺構の一部が、墓地として使われて破壊されています。

●フェニキア人
記録に残っている最初の人々は、フェニキア人です。マルタの名称のもととなったメリタ(Melita)も、フェニキア人が名づけました。これは『避難所』という意味で、水深、奥行きともに深いマルタの良湾がこのころより、海が荒れた際の避難港としてこの頃より使われていたからです。マルタの姉妹島ゴゾの名称は、後の聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)によって使われはじめたと今日いわれますが、このころフェニキア人が『グウル(Gwl)』と名づけて、これがローマにひきつがれて『ゴウドス(Gaudos)』となります。やがて、フェニキア人と、ギリシア人が、地中海での覇権を争う時代がやってきます。B.C.750年ごろより、ギリシア人がマルタにも拠点をもつようになりますが、フェニキア人と争うことなく、平和裏に共存しました。が、50年ほどで、ギリシア人はマルタを去ります。これがために、地中海域の広い範囲で見られるギリシアの遺跡が、マルタにはありません。

●ポエニ戦争とローマ
北アフリカのフェニキア人による国家カルタゴが力をつけると、マルタはカルタゴ領となります。イタリア半島に興り、おなじように勢力を拡張をしてきたローマと、カルタゴのあいだで、シシリーにいくつかあったギリシア系国家を巻き込む形で紛争がおこったのは、当然のなりゆきでしょうか。これが、三次にわたるポエニ戦争への導火線となります。
第1次ポエニ戦争の際、マルタはローマに占領されますが、戦後、カルタゴに返されます。マルタがローマ領となるのは、第2次ポエニ戦争においてです。
ローマ領になってからは、現在のラバト・イムディナに都市が、グランドハーバー奥部のマルサには、港湾施設が築かれ、この間には当然のことながら、ローマ式の道路が敷設されます。ゴゾにも農園をともなう別荘が多く建てられ、その風景は、今日と似ていたようです。その後も、永きにわたって、フェニキアの文化風俗は、色濃くマルタに残りました。ローマ領になってから一世紀半後のマルタのことを「まるでフェニキアの植民地である」と描写した書物もあります。さらに、マルタがローマ領になって三世紀ちかくたってから漂着した聖パウロは、『使徒行録』のなかで、マルタの住民のことを「島の土人」と呼んでいます。この箇所、ギリシア語での原典では「barbaroi」と表記されています。「barbaroi」は直訳すると「野蛮人」ですが、この当時では、ローマ化(文明化)されていない社会に暮らす者か、ローマ化された社会に生活していても、ラテン語やギリシア語を話さない者のいずれかを指していう言葉でした。当時のマルタは、すでに、ローマ式のインフラが高度に整備されていました。人々がラテン語やギリシア語ではなく、フェニキア語を話していたため、聖パウロは、後者の意味で、「barbaroi」と呼んだのです。

●アラブのもたらしたもの
ローマ帝国が東西に分裂して後、西ローマ帝国の勢力が衰え、北アフリカにバンダル人の王国が興ると、マルタは、シシリーとともに、たびたびバンダル人に脅かされるようになりましたが、バンダル人は、マルタを占有することはありませんでした。
西ローマ帝国が滅びると、マルタは、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)の支配するところとなります。しかし、ビザンチン帝国は、マルタをあまり重要視しなかったようです。
やがて、アラブの侵寇となりますが、このとき、マルタの住民は、アラブに激しく抵抗したようです。にもかかわらず、アラブ支配下でも、キリスト教徒は、信仰を持ちつづけるを許されました。かんきつ類や綿花などの新しい作物、灌漑などの農業技術は、この時期、アラブによって、もたらされました。
また、マルタ語もアラブ支配のもとでできあがり、マルタやゴゾの地名の多くも、このときつけられました。それ以前のマルタの地名は、アラブ語と同じセム語族に由来するものがほとんどであったため、あたらしい地名はすんなりと受け入れられ、それまでの地名と入れ替わったと考えられます。


★マルタの歴史に関する書籍については、こちらをご覧ください===>


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中央地中海通信/坂田 真